韓国軍がベトナム戦争で、ひどいことをしたのは有名な話。
 韓国人がベトナムに行くと、露骨に嫌な顔をされるという。
 日本人でも、韓国人と間違われると、さんざんなベトナム旅行になる。

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婦女を輪姦し、乳房をナイフで切り取ったあと、女性器を銃剣でかき回して殺害

若い女性ひとりを10人で強姦してから撃ち殺す…韓国軍がベトナムで犯した知られざる戦争犯罪の数々

PRESIDENT Online

1.1964年~73年、韓国はベトナム戦争に延べ30万人以上の兵士を派遣し、米国を支援した。

その際、多数の民間人を虐殺したことがわかっている。

 フォトジャーナリストの村山康文さんは「地元の新聞社を訪ねて、虐殺の手口を聞くことができた。

 韓国軍の行動は、正気の沙汰とは思えないものばかりだった」という――。

[韓国軍が犯したとされる事件を取材するためにベトナムへ]

3.[村人30人を射殺し、手榴弾で爆破して事件を隠蔽]

私はビン編集長と握手を交わし、ロビーのソファーで訪問理由を話した。

 すると「少し待っていてくださいね」と立ち上がり、編集局長室から2冊の書籍を持ってきた。

 それは、ビン編集長が編纂へんさんしたという地元の郷土史をまとめた本だった。

 「私は歴史が大好きで、約2年かけてフーイエン新聞社の記者や友人らと一緒に資料研究・聞き取り調査を行いました。

 これらがその集大成です。

 タイホア県のホアドン社とホアミー社の郷土史をまとめたものですが、他県も現在進行中です」

 ビン編集長は、書籍をペラペラとめくり、「韓国軍による虐殺事件についてはこのあたりに書かれていますね」と説明した。

 ともに3センチメートルほどの分厚い本のそれぞれに、ベトナム戦争時代に起きた事件に関する証言の記録があった。

 以下はその概要だ。

 ・ホアドン社フーミー村では村人30人全員を撃ち殺したあと、3つの井戸に放り込み、手榴弾を投げ込んで、何事もなかったかのように隠蔽いんぺいした。

 ・韓国兵10人がひとりの若い女性を集団でレイプし、女性はその後、撃ち殺された。

 ・ホアミー社チュオン村では16人が殺害された。一家6人が死亡した家では、高齢者2人、妊婦1人、障がい者1人が含まれていた。

 ・ホアミー社ミートゥン村とクアンフー村では7人の女性を捕らえ、兵士らが代わる代わるレイプしたあと、女性ふたりの喉を銃剣で突き殺害。
  残り5人の女性を森へと連行し、裸にさせてきつく縛り、韓国兵のトップらが輪姦をした。
  その後、5人の女性と乳児ひとりを刺し殺した。
 

  
  目を覆いたくなるような惨劇が克明に描写されていた。

[「兵士が持つ銃剣に、輪投げのように乳児を投げて殺害」]

 「この2冊の本には書かれていませんが、作成中の他県の聞き取り調査では、『婦女を輪姦し、乳房をナイフで切り取ったあと、女性器を銃剣でかき回して殺害』『兵士が持つ銃剣に、輪投げのように乳児を投げて殺害』など信じられないような証言をいくつも聞いています」と、ビン編集長は静かに話した。

  事件が起きたとされる村で韓国兵がとった行動は、とても正気の沙汰とは思えないものばかりだ。

 「今日はこのあと、どちらに行かれますか?」

 「昨年6月の『フーイエン新聞』の記事を参考に、ドンホア県のホアヒエップナム社に行こうと考えています」

 「ホアヒエップナム社ならダグウ村のヴンタウ集落(現フーラック村)に1975年に建立された石碑があります。

 それと、ヴンタウ集落近くのトーラム村に住む彼を訪ねたらいいでしょう」とビン編集長は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、事件の生存者、ファム・ディン・タオ(57歳=2014年6月時点)という男性の電話番号を教えてくれた。

 ベトナム戦時下で起きた韓国軍による民間人殺害事件に関する証言を、地元新聞社がまとめていることを、私はこのとき初めて知った。

 その情報を惜しげもなく提供してくれたビン編集長。

 フーイエン新聞社への訪問は、想像していた以上の成果があった。

 「私は日本が、日本人が大好きなんです。

 美しい街並みと自然に囲まれ、人びとは真面目で、謙虚で、親切で。

 私でお力になれることがあれば、なんでもおっしゃってくださいね」と、ビン編集長は満面の笑みで私の肩を抱いた。

4.[瞬く間に37人の住民が韓国軍に殺された]

 フーイエン新聞社でビン編集長に事件の詳しい情報をもらった私は、いつも以上に取材に向かう志気が漲みなぎっていた。

 私たちは、ホアヒエップナム社に向かって、トゥイホア市内を南下した。

 トゥイホア市近郊を流れるダラン川を越えて海岸沿いの道路を走る。

 国道29号線と交わった先を山手の方へ少し入ると、ドンホア県のヴンタウ集落に到着。

 車でおよそ30分だった。

 村の入口にある鬱蒼うっそうとした森の陰に高さ2メートルを超える石碑が人知れず建っていた。

 風雨にさらされ、ところどころ黒ずんだ石碑が、建立されてからの長い年月を感じさせる。

 フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ダグウ村ヴンタウ集落で事件が起きたのは、1966年1月1日(旧暦1965年12月10日)朝7時ごろとされる。

 村の北側から押し入ってきた韓国軍の攻撃により、瞬く間に住民37人がその場で命を落とした。

 そのほとんどが老人、女性と子どもたちだったと、私は先ほど訪れた『フーイエン新聞』のビン編集長に聞いた。

 ヴンタウ集落のあるダグウ村に住む元ベトコン兵士ファム・トゥアさん(75歳=2017年3月時点)の話によると、韓国軍は、ダグウ村一帯の森を切り拓いて基地を作る予定だった。

 当初、韓国軍は民間人とベトコンを分けて、民間人を保護しようとしていたが、韓国兵らは両者の区別ができず、村人の殺害に及んだという。

[慰霊碑ではなく「憎悪碑」が建てられていた]

「慰霊碑があるな。写真を撮っておこう」と私が言うと、ダオが「これ、慰霊碑じゃないですね。『憎悪碑』って書いてあります」と指摘した。

近付いてみると、確かに石碑の上部にベトナム語で「憎悪碑」と刻まれている。

今まで私が取材をしてきた他の慰霊碑のように、石碑の下部にあったと思われる犠牲者の名前は、明らかに故意に削り取られていた。

 金賢娥氏の前掲書には、〈主に、虐殺現場に建つこの碑は、大部分は地方政府が建てたものである。

 1986年のドイモイ以前に建てられた碑は、憎悪碑という名前がつけられ、事件が起こった年と日時、死んだ人の名前が記されている〔こともある〕。

 しかし、ドイモイ以後に建てられた碑は慰霊碑と刻まれている。

 過去に蓋をし未来を見ようという社会的な雰囲気が碑にも現れたものとみられる〉との記述がある。

 ヴンタウ集落の石碑は、終戦後間もない1975年に建立されたというから、「慰霊碑」ではなく「憎悪碑」と彫られたのだろう。

 私が「憎悪碑」の写真を撮っていると、バイクで通りがかった中年男性が「何をしてるんだ?」と声をかけてきた。

 私が男性にここに来た事情を説明すると、「この路地の奥に事件を知る、グエン・ティ・マン(68歳=2014年6月時点)という女性が住んでるよ」と親切に案内までしてくれた。

 「憎悪碑」がある広場の横を入り、コンクリート舗装された小道を少し歩くと、私を出迎えるかのように一羽の鶏が「カ、カ、カケコー」と飛び出てきた。

 鶏が出てきた家の前で「マンさん、お客さんだよ」と男性が声をかけた。

 世話好きな男性の姿に、私は「田舎の人は全員知り合いなのかな」と思い、くすりと笑った。

5.[命乞いをする住民を銃殺し、最後に手榴弾を投げ込んだ]

 洗い物をしていたのか、手をタオルで拭きながらマンさんが家のなかから出てきた。

 マンさんは、私を見るなりほころんでいた顔を急に強張こわばらせ、「韓国人かい?」と小声で言った。

 「いえ。日本人です」。
 
 そう私が答えると、マンさんの表情は少し和らいだ。

 ベトナム中部の取材を始めてから、ライダイハンが住む村や韓国軍による民間人殺害事件が起きたとされる村で、私は韓国人に間違えられることが多くあった。

 特にベトナム戦争を知る世代の人からは、露骨に無視されることがあり、明らかに煙たがられているなと感じたこともある。

 「ひと月ほど前、韓国人数名が石碑にお参りをしているところを見かけたんです。

 韓国人を見ると今でも恐ろしくて」。

 そう言いながら、マンさんはダオと私を自宅に招き入れた。

 そして事件当時の様子をゆっくりと語り出した。

 「……日が昇ると同時くらいにヘリコプターの音が聞こえ、北の方角から韓国兵が村に押し入ってきました。

 村人らは家に隠れているとベトコンだと誤解されるので、家族を集め、外に出たんです。

 男たちは殺されるからとほぼ全員がその場から逃げました。

 すると、老人や女、子どもばかりがよくわからないまま広場に集められていました。

 まさか、女、子どもに手を出さないだろうと思っていたら、韓国兵らは銃で狙いをつけたんです。

 みな驚き、命乞いをしました。

 しかし韓国兵は、命乞いする彼らを次々と撃ち殺し、そして最後に手榴弾を投げ込んだのです。

 少し離れた木の陰で事件の様子を見ていた私は、おじに手を引かれて一緒に山の奥へ逃げて助かりました」

 そう言って、マンさんは悲壮な表情を見せた。

「知らぬ間に名前が削られていたんです」

 私は、先ほどから気になっていた「憎悪碑」の下部にあったであろう削り取られた文字のことをマンさんに尋ねた。

 「ええ。あの石碑には昔、隣接するダグウ村とトーラム村の2つの村で犠牲になった80名の名前が彫られていました。

 でも、知らぬ間に名前が削られていたんです。

 いつ、誰が削ったのかは、私はわかりません。

 消されたことを知ったのは、もう随分前です」

 私の取材の基本スタイルは、時間の許す限り、同じ取材対象者に繰り返し会うことだ。

 そうすることで、取材対象者との距離が縮まって信頼関係が生まれ、最初は口をつぐんでいても、ある日突然、話しにくい事実を明らかにしてくれることがあった。

 また、何度も訪問することで、彼らが住む町の変化に気付けたりもした。

6.[「憎悪碑」は「慰霊碑」に変わりつつある]

 この年(2014年6月)に会ったマンさんも例外ではない。

 私は、フーイエン省の取材で近くに行けば、必ずマンさん宅を訪問した。

 そして、マンさん宅を訪問するたびに、そばにあるヴンタウ集落の石碑の「変化」を目にすることになった。

 戦後まもなくに建立された石碑は、2016年8月、碑の上部に「憎悪碑」と書かれたまま色が白く塗り替えられた。

 さらに2017年10月、碑はその形状を変え、「慰霊碑」と書き改められて犠牲者80名の名前が刻まれた。

 「慰霊碑」となった後の2018年2月、ヴンタウ集落を取材したとき、かつて『フーイエン新聞』のビン編集長が語った言葉を思い出した。

 「1992年の越韓国交回復後、両国の関係は次第に良くなっています。

 現在、ベトナム政府は過去を忘れるために、韓国軍による民間人殺害事件があったとされる村の『憎悪碑』を『慰霊碑』に変えていこうとしています」

 石碑からは“憎悪”の文字が消えたとしても、事件を経験した被害者たちの心から消えることはないだろう。

 村山 康文(むらやま・やすふみ)
 フォトジャーナリスト

  PRESIDENT Online

 https://president.jp/articles/-/60464?page=1

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