宮台真司先生と波頭亮さんが、興味深い対談をしていた。
現代の日本社会をどう捉えるか?
そして、どの様な日本社会が、あるべき社会か?
について考える。
① 将来不安のない、社会を実現しよう
日本とアメリカの社会は、大学教育を受ける為に、多くのお金が必要で、親がそのお金を準備しなくてはならない。
または、日本とアメリカの大学生は、学生ローン(奨学金)、400万円を借りなければ、大学に進学、卒業できない。
これに対して、ヨーロッパの大学生は、学費が無償になっている。
また、ヨーロッパでは、大学院に進学すると、国に貢献しているという理由で給料が支給される。
この辺が、日米とヨーロッパの大学教育の大きな差になっている。
日本も、せめて国公立大学だけでも、成績さえ良ければ、家庭の貧しい学生は無償で、学業を修めることが出来るようにした方が、国の発展と、税収とGDPにゆくゆくは貢献することになる。
② 民主制の成立条件
民主制が、社会を上手く運営するシステムとして機能するには条件がある。
それは、社会と社会の構成員の民度が一定以上になっていることである。
民度が低ければ、民主制は衆愚政治になり、最悪の結果をもたらす。
民度が高く、人々が学び、健康な判断力がある、という前提の下で、民主制は上手く機能する。
③ 他人を見捨てる社会
縄文時代のお墓の発掘で、古代の日本人は、病気や障害のある人に対して、とても優しくて、例え障害があって、部族に労働力やら何やら提供できない人間も、仲間として大切にしていたことが解った。
その人たちは、私が思うには、恐らく1960年1970年位までは、世界と同程度の、寛容性と優しさがあった。
しかし、現代では、日本以外の世界の90%が生産性のない人でも面倒を見るといい、10%の人が面倒を見る必要はないと言っている。
日本人は、40%の人は、ホームレスや、自分で生計を立てることが出来ない人は居なくなってもいい、と回答している。このレートは世界の4倍高くなっている。その意味で、日本人は自分が大事、それ以外の人は大事ではないと思っている。
④ 人が you か it か どちらに分類されるか?
you と呼ばれることは、人間としての価値を認められる、ということだ。
it と呼ばれ、扱われることは、人だけど物と同じに扱われ、交換可能なものとして扱われることだ。
宮台さんは、家族の中で、子供でさえ、「あなたは数学が良く出来て大切な人だ」という条件を付けられた場合は、子供は、数学の成績がいいから、認められているのだ、と認識する。
数学の成績が悪ければ、大切にされることはない、と子供は認識する。
つまり、日本の社会では、個人が 物としての価値しかなくなって来ている、という危機感を感じる。
そうは言っても、実態として、人間は、かつてそうだったような、人間であること自体では価値はない。
日本社会では、稼げる人が価値を認められ、稼げない人は、その辺の石や、木、ゴミと同じ価値しかない。
しかし、その様な、稼げない人を、物として扱っている現代社会に於いては、勝ち組の人の生活水準をも危うくし、勝ち組の人は幸せだと誤解してしまう危険性がある。
勝ち組の人も、このような人がモノとしての価値しかない社会に於ていは、人間がそれ自体であるが故に価値がある社会と比べて、幸福度が低くなってしまっている。
このことに、多くの勝ち組の人も、負け組の人も気が付いていない。