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豊臣秀吉の朝鮮出兵とその背景:スペインの東南アジア支配への恐怖

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、実は朝鮮への出兵が目的ではなかった、ということは現代の歴史研究者の研究の主流になっている。

 秀吉は、南蛮貿易や、宣教師周辺からの情報で、スペインポルトガルが、東南アジアを植民地化し、施政権、徴税権をも、はく奪され、武装解除されて、奴隷になっている現状に鑑みて、早晩、スペインポルトガルは、日本を植民地化しようとするだろう、と予測した。

 
 そのスペインポルトガルに対抗する為に、明領内を軍が通行できるようにしたかったと思う。

 秀吉の考える日本国の本当の敵は、スペインポルトガルだった。

 その為に、明に一撃を与えて、いうことを聞かせるという手段を取ろうとした。

 その過程で、朝鮮を通ったということだった。

 

 しかし、朝鮮は、日本軍、秀吉軍を見て、怖がって戦わなかった。

 朝鮮が陸上でこてんぱんに負けたというのは違っていて、軍隊が戦うのを恐れて逃げてしまったのだ。

 豊臣の軍勢は、朝鮮軍が逃げたので、戦わずして主要拠点を制圧した。

 ところで、良く語られる、李舜臣 の水軍が、日本の水軍を破った、というのは事実である。

 しかし、ここで言っておかなければならないのは、日本を苦しめた水上部隊は、朝鮮の国軍ではなくて、李舜臣 の私軍的なものであったということだ。

 朝鮮の水軍の勝利は、朝鮮の政治的な力や、軍事的な力ではなく、一個人の力量によるものだった。

 
 日本軍の強さは、組織的で、国家ぐるみの軍隊の強さがあったのに対して、朝鮮軍はそもそも軍隊の体をなしていなかった。政治体制も明国のいいなりだった。
 朝鮮軍の一時的な水軍の勝利は、朝鮮の国や、軍の勝利ではなく、李舜臣 という一人の人物の勝利だった。

 朝鮮はもとより、その宗主国の明も、秀吉の考えを理解していなかった。

 明国は、スペインポルトガルなどのヨーロッパの軍勢を甘く見ていた為に、その後にアヘン戦争で敗北し、分割されて植民地になってしまった。

 朝鮮はその後も、代々、中華思想を継承し、何かことがあれば、チャイナに助けてもらう、という考えを改めることはなかった。

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なぜ陸で無敗の日本軍が、海では李舜臣率いる朝鮮軍に連戦連敗したのか?
約16万もの兵を動員して秀吉が仕掛けた朝鮮出兵「文禄の役」の流れを整理する
日本史サイエンス弐
播田 安弘 船舶設計技術者

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婦人公論.jp

https://fujinkoron.jp/articles/-/8332

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1.文禄の役・慶長の役
信長が進めた天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、関白となって位人臣をきわめ、事実上の日本国王となりました。

彼の施策には、大名の私戦を禁じた惣無事令や刀狩りなど、国内には平和をもたらすものであったと評価されていますが、朝鮮に対しては二度の侵略戦争を行いました。

一度目は1592年の文禄の役(韓国では「壬辰倭乱」と呼ばれています)で、日本から朝鮮半島へ約16万の兵が送り込まれました。二度目は1597年の慶長の役(韓国での呼称は「丁酉倭乱」)で、日本は約14万人の兵を動員しました。

通算7年におよぶ日本と朝鮮、さらには朝鮮の宗主国である明をも巻き込んだ戦いは、それまでの東南アジア史で最大にして、当時の世界最大規模の戦争であり、多大な戦死者を出す凄惨きわまるものとなりました。

しかし結局、日本軍は戦果をあげられず、秀吉の死によって撤退を余儀なくされたのです。

2.なぜ陸では無敗だった日本軍が海戦で連戦連敗したのか

文禄の役では開戦当初から、日本軍は朝鮮軍や明軍を蹴り散らし、進撃を続けました。このままいけば、明に日本軍がなだれ込むのも時間の問題と思われました。

ところが表1を見てください。これは文禄の役における海戦について、日本側からみた勝敗を記したものです。

なんと、陸では無敗の日本軍が、連戦連敗を喫しているのです。いったい何が起こったのでしょうか。ここからが、この原稿の本題です。

秀吉の朝鮮出兵について、陸上での戦いは多くの書籍に書かれていますが、海戦について記されたものは非常に少なく、皆無といってもいい状態です。そこで筆者なりに、船の専門家としての知見も生かしながら検証していきたいと思います。

3.全羅道水軍左水使・李舜臣
1592年4月12日、 山に日本軍の一番隊700隻が上陸したとき、慶尚道水軍を率いていた朴泓(慶尚左水使)は戦わずして逃亡しました。もう一人の指揮官である元均(慶尚右水使)も、日本軍の勢いを見て勝ち目はないと思い、水軍の船をみずから沈めて逃げ出しました。

こうして慶尚道水軍は無抵抗のまま壊滅し、日本軍は労せずして制海権を確保しました。

ところが、さらに逃走を続けようとする元均に対し、これではあまりにも情けない、全羅道水軍に救援を仰いで日本軍と一戦交えようと諫める部下がいました。元均もやむなくそれに従いました。

救援要請をうけたのは、全羅道水軍で左水使をつとめる李舜臣(1545〜1598)でした。彼は釜山陥落の報に接して憤り、日記に以下のように書き記していました。

  ―4月15日慶尚右水使(元均)の報告によれば、倭船九十余がやってきて釜山浦の絶影島に駐泊した。慶尚左水使(朴泓)からも公文が届き、倭賊三百五十余隻が既に釜山浦の対岸に至った。16日には慶尚右水使から公文が来て、釜山の距鎮はすでに陥落したという。非憤に堪えない。

―4月18日東 府城もまた陥落し、梁山・蔚山も敗北、慶尚右水使は軍を率いて東 府城の後ろに来たが、釜山浦が陥落したのを聞き、怖れをいだき、外に出て倭賊を挟撃すると偽り、蘇山駅に逃げ、さらに兵舎に戻り、自分の妾を脱出させ、自らも逃げた。また、慶尚左水使も城を捨てて逃げた。憤懣やるかたなし。

―4月20日慶尚道観察史の公文に「倭賊の勢いは盛んであり、その矛先に敵するものなし。彼らは長駆して勝に乗じ、あたかも無人の野を行くようだ」という。「戦艦を整理して救援することを願う」という。

若いころより勇猛果敢さを知られていた李舜臣は、上司や運に恵まれず、長い間、不遇をかこっていました。しかし、彼と同郷の幼なじみで、副首相の地位にあった柳成龍(のちに首相)がその才能を買って、全羅道水軍左水使に大抜擢したのです。それが文禄の役の前年のことでした。

なお、ここで紹介した李舜臣の『乱中日記』は、1592年1月1日から死の直前の1598年11月までの戦闘をリアルタイムで記録したもので、非常に史料的価値があり、日本語版も出版されています(『乱中日記―壬辰倭乱の記録』北島万次訳注、東洋文庫)

4.停泊していた日本艦隊へ突入

さて、李舜臣は元均からの救援要請をうけると、全羅にもいつ日本軍が攻めてくるかわからないのに、朝廷の命令もなく越境することはできないと、いったんは拒否しました。

しかし信頼する部下から、ここは境界にとらわれず敵の先鋒を挫くじくことが全羅防衛にもつながると説得され、ついに出撃を決意します。こうして、李舜臣の戦いが始まりました(図2)。

5月7日明け方、李舜臣率いる全羅水軍は日本水軍の停泊地・加徳島(釜山広域市)をめざして進んでいましたが、巨済島の玉浦に日本船が停泊しているとの報に接し、そちらを攻撃すべく転進します。

玉浦に停泊中の日本艦隊は、藤堂高虎らを将とする水軍と輸送船団でした。

朝鮮水軍の来襲を知った彼らは、数では劣っていたものの、逆に船を出して迎え撃とうとします。それに恐れをなした朝鮮水軍では戦う前に逃亡する船もありましたが、李舜臣は全軍を鼓舞し、突入を開始しました。

5.火矢を打ち込まれて次々と炎上した日本水軍

李舜臣の戦術は、敵船との距離を保って、弓矢による射撃と、火砲による砲撃で敵兵を圧倒するというものでした。接近戦になると日本刀をもった日本軍の斬り込みが脅威だからです。日本水軍は接近を試みては火矢を打ち込まれて次々と炎上していきました。

逃げる日本水軍を朝鮮水軍は翌日以降さらに、合浦、そして赤珍浦へと追撃し、結果として、日本船を(諸説ありますが)数十隻も焼き払う戦果をあげました。

このあとも李舜臣率いる朝鮮水軍は勢いに乗って、泗川海戦、唐浦の海戦、唐項浦海戦(第1次)、栗浦海戦、閑山島海戦、そして7月9日の安骨浦海戦まで連戦連勝でした。

https://fujinkoron.jp/articles/-/8332

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