アメリカ本土攻撃で、一番効果があがったのは、風船爆弾と言われる爆弾だった。
偏西風にまかせて大型風船に爆弾を付けたものが放たれ、北米で山火事などが頻発した。

しかし、アメリカがこれに手を焼いていると気づかれると、日本軍が攻撃を増長する恐れが有ったので、この風船爆弾による火災はラジオでも新聞でも報じられることは無かった。

また、1945年には、当時としては 超大型の潜水空母、伊400型による、パナマ運河の爆撃命令が出されて、作戦遂行中に終戦となった。

なので、実際にアメリカ本土に航空機、船舶等で攻撃を行ったのは、この伊25 による爆撃2回だけである。

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「伊25潜」の零式小型水上偵察機でアメリカ本土を爆撃!
敵国から英雄と呼ばれた男
海底からの刺客・帝国海軍潜水艦かく戦えり

2022.08.16

「私も軍人の端くれです。万一の場合は、彼らの前で見事に腹を切る覚悟です」──。

  昭和37年(1962)4月、赤坂の高級料亭に呼び出された藤田信雄(ふじたのぶお)は、当時の官房長官であった大平正芳(おおひらまさよし)の話が終わると、毅然とした態度でこう言い放った。

 そして少し茶目っ気を含んだ目で大平を見つめ「先祖伝来の日本刀を持って乗り込みますよ」と結んだ。

 一介の金物会社経営者にすぎなかった藤田が、官房長官に呼び出されたのは戦時中のある作戦が要因だった。

 だが当時、それは日米双方ともほとんどの人が知らなかった。

  大正元年(1912)、大分県豊後高田市で生まれた藤田信雄は、昭和7年(1932)に徴兵され帝国海軍佐世保海兵団に入隊。

 翌年には霞ヶ浦航空隊の第20期操縦訓練生に合格し、パイロットの道へと進んだ。

 さらに水上偵察隊搭乗員となっている。

  兵曹長(へいそうちょう)となった藤田は昭和16年(1941)、就役したばかりの伊号第25潜水艦(以下・伊25)に、零式小型水上偵察機とともに搭乗。

 だが勇んで出撃した真珠湾攻撃では、藤田の乗機が不調となり、攻撃前に計画されていた偵察任務に参加することができなかった。

 真珠湾攻撃後、伊25はアメリカの太平洋岸北西部に沿って警戒行動を実施。

 マーシャル諸島クェゼリン環礁の基地へ戻る前、アメリカの船舶を攻撃。

 基地に帰投したのは昭和17年(1942)1月11日になっていた。

  その後、伊25はオーストラリアのシドニー、メルボルン、ホバート、さらにニュージーランドのウェリントン、オークランドといった港の偵察任務に就いた。

 この間、藤田は潜水艦から偵察機を発艦させ、空からの偵察を行っている。

 こうした任務を続け、一旦横須賀に戻っていた1942年4月21日、藤田は軍令部から呼び出された。

 するとその場で、首脳たちから単独によるアメリカ本土オレゴンの山中への空爆命令を拝したのである。

 これは4月18日、空母を発艦したB25爆撃機により日本本土が初めて空襲され、国際法上禁じられている民間人に対する攻撃が行われた事に対する報復であった。

  同年8月15日、藤田を乗せた伊25は横須賀を出航。9月9日未明、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線西側の海域に浮上した。

 藤田と奥田兵曹は小型偵察機に2個の焼夷弾を積むと、午前6時に伊25を発艦。

 約40分の飛行後にオレゴン州上空に入ると、エミリー山に2発の爆弾を投下。

 火災を確認すると、すぐさま帰艦した。

 さらに同月25日にも再度出撃。空襲を成功させている。

 藤田が行ったこの2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による攻撃と記録された。

 元シアトル総領事は、軍令部に「アメリカ本土で山火事を起こせば、付近の住民に相当の脅威を与えられる」という内容の手紙を送っている。

 これが空襲場所選定の決め手であった。実際、空襲による被害はとても微々たるものであったが、アメリカ国民に計り知れない精神的ショックを与えることには成功する。

 伊25はその後、通商破壊戦を行いつつ日本へと向かう。

 アメリカのタンカー2隻を撃沈し、さらにアメリカ軍の潜水艦と誤認し、ソ連潜水艦撃沈というオマケも付いた。

 藤田はその後も偵察を主任務としてパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進。

 昭和18年(1943)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任し、その高い飛行技術が買われ航空隊付教官となった。

 終戦間際には特攻隊に志願し訓練を重ねたが、出撃1週間前に終戦を迎える。

 「アメリカからあなたの身元の問い合わせがありました。

 我々は外務省を通じ、あなたの事をアメリカ側に伝えています。

 あなたはアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人です。

 ご在知の通り、アメリカ人の元日本軍人に対する反感は未だに根強いものがあります。

 万一、渡米して報復を受けたとしても、日本政府はあなたの身を守ることはできません。

 残念ですが藤田さんが渡米された場合、政府は一切関知しないということになります」

 大平官房長官の言葉は非情であった。

 しかし藤田は冒頭の言葉を返したのである。

 そして実際に家宝の日本刀を忍ばせ、招待されたオレゴン州のブルッキングス市に渡った。

 ところがブルッキングス市民は、藤田を大歓声で迎え入れてくれたのだ。

 彼らはかつての敵国のパイロットを、初めてアメリカ本土を爆撃した英雄と認め、フェスティバルの主賓として招待したのだ。

 藤田は自らの不明を恥じ、先祖伝来の日本刀を、平和を誓う印としてブルッキングス市に寄贈した。

 その後も、平成9年(1997)に藤田が亡くなるまで交流は続き、藤田は死去する数日前にブルッキングス市の名誉市民となったのである。

 

 https://www.rekishijin.com/21915

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