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「利権マスコミの真実」  田原総一郎『電通』(朝日文庫)  

投稿者:ジュリア  投稿日:2022年 6月23日(木)22時17分23秒 「利権マスコミの真実」  田原総一郎『電通』(朝日文庫)


電通の闇について??Q&A
「電通」とはどんな会社ですか?


 電通は世界一の巨大な広告会社です。
 日本の総広告料の約25%を電通が握っており、2位の博報堂を売上高で2.75倍も引き離しています。ただ電通の広告の取扱高が「世界一」というのには事情があります。例えばアメリカでは業種が同じ場合、複数の企業の広告を一つの代理店が扱うということはありません。ところが日本ではトヨタもホンダも日産も全部、電通が取り扱うのです。仕事量が膨大なものになるのは当たり前です。


 電通という会社の歩みは日本の近代史と密接に関わっています。
 創業は明治34年(1901年)です。創業者は光永星郎、会社名は「日本広告株式会社」、今の銀座4丁目に小さな二階家を借りて家賃25円を払ってのスタートでした。当時は広告という言葉を知っている人もあまりいませんでした。たとえ知っていても広告主=企業と広告を載せる媒体=新聞社との間に広告代理業者がいる、ということを知っている人はほとんどいなかったでしょう。その、まったく未開拓の市場に光永星郎は乗りだしました。


 しかし、光永がやりたかったのは実は通信社の創設でした。日清戦争が勃発すると光永は従軍記者として中国各地を回りました。その時、日本には本格的な通信社がなかったので外国の特派員が書いた間違った記事をそのまま新聞が載せたり、光永が書いた記事を新聞が載せるまでにあまりに時間がかかったりという、苦い経験をしました。そこできちんとした通信社を創ることを思い立ったのです。


 しかし通信社の運営には莫大な資金がいります。当時は新聞社の財政基盤が弱く、通信社からニュースを買うのにわざわざお金を出す、という発想もありませんでした。そこで苦肉の策として通信業と広告代理業を両方やる会社を興すことにしました。つまり新聞社にニュースを提供して通信料をもらう代わりに広告を載せてもらって新聞社に広告料を支払う、というシステムです。


 明治39年(1906年)、日露戦争によって景気が良くなった時期を見はからって光永は「日本広告株式会社」と「電報通信社」を合併して「日本電報通信社」を設立しました。

これまで「電通」はどんなイベントを手掛けてきたのですか?


 電通は別名「ランカイ屋=展覧会屋」と呼ばれています。電通はありとあらゆるイベントの企画、運営、スポンサー集め、入場券の販売など一切を仕切ります。小さいイベントとしては企業の見本市や地域おこしですが、大きなイベントとなると展覧会、博覧会、コンサート、スポーツ・イベントなどがあります。電通はあくまで黒子に徹しているので表に出てくることはありませんが、私たちの記憶に残っているような歴史的なイベントには必ずといっていいほど電通が関わっています。


 これまで電通が関わったイベントの代表的なものとしては1964年の東京オリンピック、1970年の大阪・万国博覧会、1975年の沖縄海洋博覧会、1979年の東京国際女子マラソン、1988年のソウルオリンピックなどがあります。


 ソウルオリンピックでは初めて「TOP(The Olympic Partner)」制度が導入されました。オリンピックを支えるにふさわしい最高のスポンサー、という意味で、日本からは松下電器とブラザー工業が選ばれました。このTOPとIOC(国際オリンピック委員会)をつなぐエージェント業務を行なっていたのがスイスに本社があるISLという会社ですが、ここは実はスポーツシューズ・メーカーのアディダス社と電通の共同出資会社です。

なぜ「電通」は巨大企業に成長できたのですか?


 昭和に入ると、戦争を遂行する必要から通信業務は国策によって設立された同盟通信社が行うことになり、電通は広告代理業専門の会社になりました。同盟通信社は大東亜戦争の敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって共同通信社、時事通信社などに分割されました。


 昭和20年(1945年)、ジャーナリスト、上田碩三が電通の第3代社長になりますがGHQによって公職追放の憂き目に遭います。上田のあとを受けて社長になったのが吉田秀雄でした。この吉田秀雄こそが戦後の電通の基礎を築き、電通を世界一の広告代理店にした人物でした。


 吉田は戦後、職を失った軍人や軍属、なかでも満州国の経営に携わっていた人材を次々と採用しました。広告と何の関係もない仕事をしていた満鉄関係者や公職追放となった政治家、財界人、新聞人などを社に迎え入れました。科学的なデータに基づいて当時としてはもっとも近代的な経営戦略を知っていたのが満鉄のスタッフでした。吉田は敗戦によって職にあぶれた優秀な人材を入社させることによって、電通の経営の近代化を図ろうとしたのです。


 電通が躍進した第一の原因が民間ラジオ放送、第二が民間テレビ放送でした。当時、広告料を取ってラジオ局を運営するという発想自体がまだなく、ノウハウもありませんでした。吉田は満鉄関係者の人脈でGHQの協力を取りつけ、6年かかって民放ラジオ開局の認可を得ました。昭和26年4月21日、ラジオ東京、文化放送など16社に予備免許が与えられました。新設されたラジオ局には電通から人材が送りこまれました。


 1959年の皇太子殿下(今上天皇)のご成婚と東京オリンピックをきっかけにしてテレビは一挙に家庭に普及しました。テレビ受像機の数は約450万台、テレビの広告費がラジオを抜いて238億円となり、75年にはついに新聞を抜いて4208億円となりました。1955年、吉田は社名を「株式会社日本電報通信社」→「株式会社電通」と改めました。

「電通」が「コネ通」と呼ばれるのはなぜですか?


 電通は今やメディアの報道や番組内容をコントロールできるほどの力を持っています。その理由は3つあり、それらは複合的に絡みあっています。
 まずメディアにとって命である広告主の問題です。例えば東京のテレビ局(キーステーション)の夜7時から11時までのゴールデンタイムのCMの約90%を電通が握っている、と言われています。CMだけでなく、番組の内容にまで電通は影響を及ぼすことができます。公正取引委員会は「広告業界が、電通を頂点とするガリバー型寡占構造となっている」と指摘しています。


 二つ目は電通が全国の主要な新聞社やテレビ局の株主である、という驚くべき事実です。マスコミ以外にも銀行、証券会社など、日本を代表する大企業の株を電通は握っています。電通がマスコミを支配できるのはマスコミと資本関係で緊密に結びついているからです。


 三つ目は人脈です。電通はマスコミ、特にテレビ局の中枢に出向という形で社員を送りこんでいます。「ビデオ・リサーチ」という、視聴率を調査する会社があります。すべてのテレビ局の命運は視聴率に左右される訳ですが、この「ビデオ・リサーチ」は実は電通の傍系会社なのです。


 マスコミに社員を送りこむ一方で電通はマスコミの社長、重役クラスの子弟や各界の著名人の子弟をコネで入社させています。「電通」が「コネ通」と呼ばれる理由はここにあります。雑誌「財界展望」1985年7月号に「子息が電通マンになっている各界著名人一覧表」が載っています(遠藤隆司「徹底調査―電通の人事・人脈騒乱」)。「81年調べ」とあるのでデータとしては古いですが、電通のコネ入社の実態がよく分かります。新聞界では5大紙と共同通信、地方紙、テレビ界ではNHKはもちろんのこと、各地方のテレビ局の幹部と電通はつながっています。その他政治家、大学教授、スポーツ選手、俳優、作家・・・・著名人の名前がずらりと並んでいます。「各界」という言葉が決して大げさではないことが分かります。電通はこのような手法で日本のさまざまな勢力と地下水脈でつながっているのです。

「電通」が「築地CIA」と呼ばれるのはなぜですか?


 電通が戦後、初めて政治と関わりを持ったのは1952年10月、日本が独立を果たしたあとの最初の総選挙の時でした。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約に調印した吉田茂首相としては、何が何でも選挙に圧勝して政権の地盤を固めなければなりませんでした。そこで国民にPRするために全国の主要新聞に大々的な広告を打つことにしたのですが、そのプロヂューサー役を演じたのが電通でした。


 吉田秀雄はこれをきっかけにして急速に政治に傾斜していきます。首相が池田隼人に代わっても吉田は首相官邸に出入りし、首相に政府広報やPR活動の必要性を説いたりしていました。1961年、吉田は台湾、フィリピン、香港、韓国を結ぶ「電通インターナショナル構想」を具体化しようとしています。それは広告というものを単なる商品の宣伝に留まらせるのではなく思想的商品にまで高め、ソ連、中国といった社会主義勢力の浸食を食い止めようという、愛国心からの行動でした。しかし1963年、吉田は59歳でガンで死亡しました。


 日本の政治家の中で誰よりも早く、テレビの影響力を見抜いていたのは田中角栄でした。「小学校卒の宰相」「今太閤」というお茶の間受けする、庶民的なキャラクターはテレビ時代にぴったりでした。
 1972年7月、首相になった田中角栄は情報体制の拡充に力を注ぎ、政府の広報予算を大幅に引き上げました。そして73年5月、首相直轄の内閣広報室を設置しました。この動きの陰に電通がいたことは間違いなく、電通も72年11月に政府・官公庁を担当する「第9連絡室」を新設しています。電通が「築地CIA」とか「影の情報省」と呼ばれるのは、日本の情報戦略を操っているのは電通だ、つまり日本を動かしているのは電通だ、という意味です。


成田豊とはどんな人物ですか?


 成田豊は電通の第9代社長です。社長を9年勤めたあと会長として2年、最高顧問として6年も電通に君臨し、「電通の天皇」と言われましたが平成23年、死去しました。


 成田豊は「韓流ブームの仕掛け人」と言われますが、それは彼自身が日本統治時代のソウル生まれで、韓国とは縁が深かったことによるものと思われます。昭和28年に電通に入社、33歳で早くも新聞の地方紙を扱う地方部長になっています。1988年のソウルオリンピックでは協賛広告を出す企業集めに奔走しました。


 電通マンにとって人脈は命、と言われますが成田豊も幅広い人脈を持っていました。「劇団四季」の浅利慶太との親交は有名で、四季の韓国進出にも当然、成田が深く関わっていたでしょう。現在「劇団四季」には100名を超える韓国人劇団員がいるそうです。成田の裏の交友関係の代表格が大手消費者金融(サラ金)「武富士」の故・武井保雄会長です。消費者金融もパチンコも、経営者の多くが在日韓国人・朝鮮人です。以前は深夜にしか流せなかった賤業であるサラ金やパチンコのCMがプライムタイムに堂々と流れるようになったのも成田が社長になってからのことです。


 社長時代の成田の最大の「功績」は何といっても2002年のサッカー・ワールドカップ日韓共同開催の実現でしょう。本来、日本が主催するはずの大会がなぜか韓国と共催になり、マスコミもこれをきっかけに意味もなく韓国を持ちあげる傾向が強くなりました。韓国ドラマ「冬のソナタ」がNHKで放映されたのは2003年です。ワールドカップ開催を見届けるかのように成田は社長職を譲って会長に就任していますが、事実上は成田の院政だった、というのが実態でしょう。2008年、成田は「30年にわたる韓日文化交流事業を積極的に後援した功労」によって韓国政府から修交勲章光化章を授与されています。

韓流ブームは「電通」が仕掛けたものなのですか?


 そうです。
 電通は韓国の国家戦略に加担しています。2008年に通貨危機直前という状況に陥った韓国は2009年、「国家ブランド委員会」を立ち上げました。韓国の映画やテレビドラマ、歌などが品質という点では日本製とまともに戦ったら勝てないことは韓国政府も分かっているので、メディアを利用して売る戦略に打って出たのです。
 例えばK-POPの場合、韓国内でCDを出してもほとんど売れません。韓国では著作権を守る態勢ができておらずダウンロードが簡単にできるからです。そこで日本で稼ごうと歌手が来日するわけですが、その時にメディアが空港に「サクラ」を動員して、あたかもその歌手が人気があるかのように見せかけます。メディアに頻繁に露出するもの=品質の良いもの、売れているものという情報操作ですが、予想以上に多くの日本人が騙されてしまいました。


 テレビ局が韓流ドラマを異常に多く流すのは電通の指示もあるかも知れませんが、コンテンツとして安いという側面もあります。日本人の脚本家が脚本を書き、日本人の俳優が演じるよりも安上がりだという単なるビジネスの発想です。ただドラマだけでなく番組の中でも韓国を不自然に持ち上げるなど、あまりに韓国に媚びる姿勢が目立ちます。テレビ局のプロヂューサーなどに国家観、歴史観がないことも一因です。


 今は武力ではなく情報で戦争する時代です。ですから中国や韓国がメディアを利用しようとするのは国家戦略としては当然のことです。問題は日本政府に戦略がなく、国民も戦後教育の悪しき影響で国家観や外国文化の侵略に対する警戒心のない人が多く、そこに韓流ブームがうまく乗ったのだと思います。


「クロスオーナー・シップ」とは何ですか?


 新聞社がテレビ局や出版社に資本参加し、グループの傘下に置くことです。 例えば読売新聞は日本テレビを、毎日新聞はTBSを、産経新聞はフジテレビを、朝日新聞はテレビ朝日を、日本経済新聞はテレビ東京に資本参加しています。これは市場競争がなく、情報独占、情報操作などの弊害が多いとして外国では禁止されている制度です。日本でも原口一博が総務大臣に就任した時、この制度を見直す機運がありましたが、原口大臣がこのことに言及しても新聞はまったく報じませんでした。


 この制度を確立したのは田中角栄首相でした。昭和39年、科学技術専門チャンネルとして開局しながら赤字続きだった東京12チャンネルを日本経済新聞に身受けさせたのは田中首相でした。「クロスオーナー・シップ」によって田中首相=自民党はテレビ局を通して新聞社にもにらみを利かせることができるようになりました。田中首相が失脚するきっかけになった「ロッキード事件」を最初に記事にしたのは雑誌「文芸春秋」でした(筆者は立花隆)。田中首相の金権政治を新聞もテレビも知っていながら記事にできなかったのです。


 新聞社は「新聞特殊規定」という特権に守られています。これは「価格競争をしなくてもよい」ではなく「価格競争をしてはならない」という異常な規定で、独占禁止法からなぜか新聞だけが例外扱いを受けています。民放テレビ局は「放送免許」に守られています。「放送免許」は一度取得したら、事実上剥奪されることはありません。テレビ局を監督しているのは総務省のはずですが、実際にはチェック機能を果たしていません。


 さらに強固に守られているのがNHKです。NHKは総務省の管轄下にある特殊法人ですが総務省の言うことは一切聞きません。NHKをコントロールできるのは唯一、国会の総務委員会ですが既にNHKと癒着しています。新たに総務委員になった国会議員がNHKの体質を改めようとするとNHKはその議員の不祥事を見つけて報道で攻撃します。驚くべき腐敗ぶりです。これが日本の公共放送の実態です。長年、特権に甘やかされ、利権でがんじがらめになったメディアを正すのは容易なことではありませんが、政治家や官僚がそれを出来ないなら私たち国民が声を上げてゆくしかありません。

参考文献:但馬オサム「電通―日本を影で操る情報工作機関はいかに巨大化したか」(「利権マスコミの真実」2011年12月29日)
     田原総一郎『電通』(朝日文庫)http://www.hanadokei2010.com/faq_detail.php?faq_category_no=109
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